夜麻みゆき氏作、ガンガンコミックス及びGファンタジーコミックスより。
全知は罪か。或いは、無知は罪か。
我々の世界では言うまでもなく科学が発達し、原子の存在やその操作、或いは月に行くなど、過去の世界ではとても出来なかったことがいくつも出来るようになりつつある。今では、特殊な設備と知識が必要とは言え、ある物質の構造が分かっていれば、もちろんまだ物質次第ではあるが原子単位でその物質を合成することも可能になっている。あたかも神のように。
この世界が仮に本当に私たちが考えるような世界であったとして、このまま私たちが科学を発展させ続け、地球だか宇宙だかの全てを、それこそ鉱物の存在量や物質の構成比からある生き物の存在個体数、その遺伝子まで、操れるようになったら。人の全ての運命を、我々が操れるようになったら。我々は神になったといえるのだろうか。神になっていいのだろうか。それは罪ではないのだろうか。高々偶然この世に生まれてきた生命の分際で。
知ろうとすること、それ自体では罪ではない、と思う。どうすればこの世界をもっといい世界に出来るか、どうしたらもっと楽しく生きられるか、どうすれば戦争はなくなるか。
だが、たとえその知りたいという好奇心によってたどり着く先だったとしても、ある、越えてはいけない線という物はあるように思われる。未知のものへの畏敬を忘れ、暴走した物はいつか必ず自らの行動によって滅びる、そんな気がする。
この世界が仮に本当に私たちが考えるような世界であったとして、と言った。何が言いたいかというと、我々は、自分たちの世界が本当に自分たちの思っているような世界であるか、と言うことすら確認できないと言うことだ。もしかしたら、我々の世界は我々よりもっとはるかに多くを知っている未知の上位生命体により作られた、シミュレーションに過ぎないのかもしれない。生物はここまでの知識を得るのにどれだけの年月を費やす必要があるか、それを試している実験なのかも知れない。我々は全てプログラムされた存在に過ぎないのかもしれない。友人も、家族も、愛も。
我々が本当に生きているのかどうか、それは実のところ問題ではない、と思う。ただ、そういう可能性もある。そういった意味でも、我々は畏敬を忘れてはならないと思う。実際がどうであれ、畏敬を持つことは自分たちの傍若無人に歯止めをかけると言うことであり、それは恐らく世界にとってもいいことではないだろうか。
一方、無知はどうか。我々は今こうして生きているが、百年後にこの世界の人々はこんな目に遭っているかも知れない。資源がつき、大気は汚染され、地球は今まさに滅びようとしている。ああ、あの頃、百年前に、今では当たり前に知られている真理を我々が知っていたら。
そして、百年前にその知識がなかったために、我々は滅びる。
そうしたら、今の我々は罪を犯しているだろうか。誰一人それに気付かないために、百年後に我々の未来を生きる物全てを滅ぼすと言う罪を。
そうは思わない。我々は皆無知だ。未来も知らない。多少の科学は知っていても、満足に地球を救う方法すら知りはしない。また、過去の人間は我々の今知っている科学を知らない。過去を誰が責められようか。
それよりは、中途半端な知識だけをひけらかし、万能であるかのように説き、他者を抑圧するような行為のほうがよっぽど罪のある行為であることのように思われる。